2018/09/07 12:25
先日、実家に帰って息子と仏壇の部屋で遊んでいるとき思い出したことがあります。
今日は色々自分のこと棚卸ししてみたくなりまして、こちらにも書いてみようかな⁉️と。
というのも、息子と遊んでいた実家の仏壇のあるお部屋。
私、約七年前このお部屋で
「私、死ぬのかも」
と本気で思ったのです。
古くからの友人意外は私の病気のことなどさわりていどにしか知らない方がまわりに多くなり、一度瀕死になったことなど、今の元気な私からはそら想像できないと思います。
意識が朦朧とする中で、まだ小さな我が子を思って泣くこともできず、ただ、なさけなくて、弱っていく私の汚い顔を温かいお湯でぬらしたタオルでふいてくれる旦那の顔が今でも忘れられません。
我慢して我慢して、診察の日を迎えた日、実家の三重から京都までの道のりをいく間、母は私に分からぬよう助手席でずっとずっと泣いていたようです。
京大病院について、意識が朦朧としていて、歩行も困難なため、車いすで移動。
どうしても必要な検査を終えてエレベーターで見た自分自身の顔色は今までみたこともないような血の気の引いた色でした。
ストレッチャーで病室に運ばれ、病室のベッドに医者や看護師さん2~3人で移動してもらったとき、はじめて泣きました。
「やっと助けてもらえる.....」
言葉の通り心の底からそうおもいました。
告げられた病名は
「全身性エリテマトーデス(通称SLE)」
聞いたこともない、難病の名前を告げられ、今思えばこの日から三~四年近くは病気を本気で受け止めるまでにかかったように思います。
不治の病
一生つきまとう再発への恐怖
おそろしいほど体をむしばむキツイ治療薬
その治療薬を一生飲み続けることへの不安
数えだしたり、口にしだしたらきりがないほどたくさんの不安と辛い治療と現実と闘ってきました。
治療薬の投与がはじまると、毛がぬけはじめ、体重がふえ、ムーンフェイスがはじまり、睡眠がうまくとれなくなりました。
それでも「生きる」ことを選んだ私が耐えていかなくてはいけない現実でもありました。
今でも闘病は続いていて、私はおそらく一生薬と共存して生きていかねばならないのですが、だからこそ、日常のありがたみがほんとの意味でわかる自分を手に入れたと思っています。
本気で家族がバラバラで、我が子にさえ会えない、抱き締めてあげられない、そんな日常を知っているからこそ、我が家に帰ってきたとき、子供たちと再びお布団でゴロンとして頬をすりよせたとき、また涙がでました。
私を今でも、変わらず、愛してくれる最愛の夫と、子供たちの生活こそが私の生きる糧なんだと天災が続く今、再び噛み締めないといけない。
そう思わずにはいられないんです。